雲一つ無い、澄んだ夜空。
 自ら輝く星達の間で、借り物の光を放つ月。
 新円を描く月は廃屋の中の少年を照らし出していた。
 
「さて、禍徒命まがとみの諸君、君達は現状を理解してるかな?」

 空に輝く月の様な静かな光を発している銀髪を風になびかせ、少年は佇んでいる。
 深紅に輝く瞳は血の様に濡れている。異様なまでに白い肌は少年の美貌を際立て、大概の女性なら一目見るだけで魂魄を奪われるだろう。
 少年は、男性にしては高く、女性にしては低い、中性的な声を響かせる。
 
 その声に反応したのは、少年の周りを囲んでいる一人の、いや一匹の異形。
 それはシルエットのみなら人に似ていたが、人間ではない。
 二メートルを超える長身。全身は黒の剛毛に覆われ、慰めにもならない量の布地が張り付くのみ


 その手には剣の様な研ぎ澄まされた爪。相手を貫き、捕獲する為の肉食獣の爪。
 何よりも人間と違うのはそのかお
 犬に似ているその貌は、殺意を含む金色の瞳と、獰猛な牙が揃う裂けた様な紅い口が存在する。
 それは人狼と称すのが最も適切だろう。
 
「それは此方の言葉だ、劣化品。お前こそ理解してるか?」

 人狼の言葉が示す通り、少年の周りを十匹の人狼が囲んでいる。
 基本能力で人間を遥かに超越している人狼。一対一ですら絶望的な状況なのに、今は一対十。確実に少年が不利だった。
 しかし、少年は余裕の笑みを顔に貼り付けている。
 その態度に激昂した一匹の人狼が大地を蹴りつけ、少年へと突進する。
 それは既に人の知覚限界を超える速度。天に掲げられた獰悪な爪は容赦無く少年に振り下ろされる。



「―――――――!!?」



 少年を切り裂く筈だった鋭利な爪は、しかし、少年の頭上十センチばかりの所で止まっていた。
 少年は微動だにしていない。先程までと同じ自然体で立っているだけ。
 目の前の現象が得心できない人狼。少年の周りを囲む人狼も同じ表情をしている。

「はぁ……やっぱり理解して無いじゃないですか。まぁ、いいでしょう。教えて差し上げますよ―――――この僕に牙を向けることの愚かさを」
 
 少年の声と共に緋色の瞳は怪しく光を放ち始める。
 その光と共に、膨大な妖力が少年を中心に渦巻く。その余りにも強大すぎる力に大気は震え、悲鳴を上げる。
 人狼達はその妖力を直に受け、動きを止めた。いや、正確には動く事ができなかった。
 強大な妖力は、人狼自身の妖力すらも乱し、呼吸すら困難にさせる。
 禍徒命(まがとみ)である人狼にとって妖力は血液の様な物であり、それを乱されることは即ち身体の支配権を失う事と同義。
 
 しかし、少年はそんな様子を気にした様子も無く、言の葉を紡ぎだす。

 『暗黒を統べる神々よ、月の権化たる我が名において命ず、汝が権能を行使し、全てに破滅と安寧をもたらせ――――轟闇暝渦ごうあんめいか

 大気を揺らす旋律は、確かな力を持って世界へと響き渡る。
 その音色に反応し、少年の身体を中心に闇が蠢く。確かな嫌悪感を漂わせるその闇は、標的たる人狼達に殺到する。
 漆黒の闇は人狼達に激痛をもたらす。人間ならば一秒と掛からずに発狂するだろうその痛み。しかし、人狼の強化された頭脳と神経は発狂する事を許さない。死と言う名の慈悲は世界の法からはみ出した者には簡単に訪れない。
 禍色の奔流に呑み込まれた人狼達の叫び声が響く冥闇。
 黒き夜に血と肉と影が踊り狂う。
 全てが無に帰すまで、無慈悲な月が惨劇を照らしていた。






******








「……たかが人狼如きに轟闇暝渦ごうあんめいかを使うことは無かったんじゃないの?」
 
 屋敷に帰った少年を迎えたのはパートナーのそんな言葉だった。
 艶のある長い黒髪は、頭の後ろで一つに束ねられている。強気な印象を抱かせる少し吊り上った瞳が特徴的な少女。
 少年の顔一つ分くらい背が低い彼女は凛とした声で言葉を放った。

「唯でさえあんたは、妖力無駄遣いできない性質なんだから……」

 溜息を吐きながら少女は言葉を打ち切る。言っても無駄だと判断したのだろう。
 そしてその判断は正しい、と少年は他人事の様に評価した。
 
「というか、桐花? また他人の戦闘覗いてたんだね?」
 
 少年の言葉に桐花と呼ばれた少女は、目の鋭角をさらに鋭くし、口を開く。
 
「そもそもこの仕事は、あんただけじゃ無くてあたし達に来た仕事でしょ。それをあんたが勝手に一人で片付けに行ったんだから、せめて結果ぐらい確認しないと」
 
 怒り半分、呆れ半分といった口調で言う桐花。それを見て少年は頭を掻く。
 その顔には反省がまったく含有されていなかった。
 それを見て桐花は重い息を吐く。
 
 「ほら、月夜、勝手に一人で仕事片付けた罰よ。あたしのストレス発散に付き合いなさい」

 そう言って桐花は、月夜と呼んだ少年の手を引き、道場の方へ歩き出した。





 
「し、死ぬ」

 先程まで悲鳴が響いていた道場から姿を現したのは、ぼろ屑と化した月夜だった。
 身体の至るところに切り傷が走っており、一つ一つの僅かな出血。しかし、月夜を貧血状態に追い込む程の数が刻まれている。
 
「ふぅ……すっきりした〜。やっぱり偶には身体を動かさないとね」

 邪念が晴れた笑みを浮かべ、道場から現れたのは桐花。薄く汗を掻いていること意外は、道場に入った時のままの姿。
 地に平伏す月夜を踏みつけ、母屋の方へ足を運んでいく。
 うげっ、と情けない声を上げた月夜はそこで力尽きた。
 しかし、捨てる神あれば拾う神あり。月夜に救済の手が差し伸べられた。

「大丈夫ですか、月夜さん? 血が、とくとくと出てますけど」
 
 おっとりした口調と共に現れたのは、着物姿の女性。手には何故か救急箱を持っている。
 着ている服が紅く染まるのに反比例し、顔が蒼くなっていく月夜。
 血の海を作りかけていた月夜の出血を止める為に、止血活動を行う女性。
 的確な処置を行い、とりあえず血が止まったのを見て、女性が口を開く。
 
「う〜ん、普通なら今すぐ輸血しないと不味い出血量だけど、まぁ、月夜さんなら大丈夫でしょ」
 
 根拠の無いその言葉に、反論しようとした月夜だが、強烈な眠気を感じ、中断する。
 その月夜の様子に首を傾げる女性だが、直ぐに得心いった様で、正座する。
 そして、月夜の頭を自らの膝の上に導き、さらにおっとりした口調で話す。

「仕事と、桐花ちゃんとの試合で疲れたんだね〜。一時間ぐらい寝れば血液も元の量に戻ると思うから、疲れを取る意味でもきちんと寝ようね〜?」

 そう月夜に話しかける女性の右手に注射器が見えたのは気の所為だと思いたい。
 それが、睡魔に負ける直前の月夜の思考だった。