目覚め始めた朧げな陽光がエクリュの街を照らしている。
 このエカルラート大陸では珍しい、漆黒の黒髪を風になびかせ少女は商店街を歩いていた。
 それを見慣れている住人は気さくに少女に声をかけ、少女も明るく返す。
 見慣れていない旅人はその女神の如き美しさに魂魄を奪われたかのように茫然と見惚れている。
 少女は夜を支配する女神ニュクスと見間違うほどに神秘的な美女だった。


「ふぅ……これで全部かな」

 ルナは軽く息を吐くと両手にビニル性の袋をもって自らの家に足を進めた。
 客を呼ぶ露店商の声、がらの悪い男達が気弱そうな店員を怒鳴り散らす声、街を巡回している騎士が防犯を呼びかける声、色々な種類の喧騒に包まれたエクリュの街は明朝から活気付いていた。いつもと変わらず景気がよく、同じぐらい治安が悪かった。
 
 
「お〜い、ルナちゃん」
 自らの名を呼ぶ声にルナは振り向く。
 すると手を振りながら恰幅のいい中年の女性が歩いてくる。
「こんにちわ。アレシアさん」
 アレシアと呼ばれた女性は朗らかな笑顔で挨拶を返した。
 その顔は陽気で子供に慕われるだろうと思われる笑顔。事実、経営している孤児院では子供に懐かれている。
「こんにちわ。ルナちゃんも買い物?」
 両手に持っている買い物袋を見えるように上げる事でルナは返事をした。
「この間はありがとね、ルナちゃん。あの子達も喜んでいるわ」
ルナは一瞬アレシアの言葉のこの間、とは何か分からず茫然とした。それを見てアレシアは口を開く。
「ほら、パンを差し入れに来てくれたじゃない」
 その言葉にあぁ、とルナは理解する。
 十日程前にパンを孤児院の子供達に買っていった覚えがある。
 基本的にルナは子供が好きなのだ。
「うちも情けない事に財形が苦しくてねぇ〜。お礼をしたいのは山々なんだけどね」
 すまなそうに言うアレシアにルナは別にいいですよ好きでやったことですし、と返す。
 それから謝ってくるアレシアを何とか説得して、ルナは大型乗用自動車乗り場へと足を運んだ。





「次はータンジェリン街道。タンジェリン街道。お降りの方はお手元のボタンを押してください」

 抑揚の無い合成音声のアナウンスが告げ、数人の客が人の森を抜け出していく。
 低い重低音を鳴らし大型乗用自動車は発進する。
 この鉄の箱の中には、明後日の祭りを心待ちにする観光客、煉獄にも似た仕事場から地獄にも似た家庭に帰館する勤め人、数日後に迫った試験の為に僅かな時間すら惜しんで参考書を開く学生、そんな人間達が詰め込まれていた。
 
 確実に飽和状態の鉄檻。驚くべきはこれが日常の一部であることだ。
 面識すら無い他人と接触して平気で居られるのは人間だけだろう。
 社会という人類最大の魔法トリックによってのみ生み出される奇跡。
 それを改めて実感しながらルナは自宅へと向かう乗用自動車に乗っていた。
 
 強化硝子の向こう側には商人達がエクリュ祭に向けて慌しく場所を取り合っている。数年前は街道一帯に露店商が店を開いていた物だが、無愛想な鉄の道路が出来上がってからは、露店を開けられる場所が年々少なくなってきている。その代わりより多くのアパートが建ち、店が増えているのでルナを含めた殆どの人間が気にしてはいない。
 前は腐るほどあった緑も段々と少なくなってきている。科学を咎める団体が立ち上がるほどに自然は破壊されている。といっても科学の恩恵を受けている殆どの人間はそんなこと考えていない。基本的に人間は利己的なのである。
 
 そんな事を考えていると乗用自動車は街の外れ、ルナの屋敷の近辺に到着した。
 ルナは金を支払い塗装された鉄の大地に降り立つ。
 しばらくして見えてきたのは豪邸。
 一見素朴に見える外見はよく見ると技巧を凝らした繊細な造形。無駄なものを省いた邸宅は粛然な雰囲気を醸し出している。
 術祈士の中でも上級ハイクラスでないと手に入らないような規模を持つその家は、ルナが親に貰った物である。ルナは貴族の娘なのだ。
 温かみのない冷酷な道路を歩きながらルナは屋敷に入る。繊細な装飾が施されたドアを開けると同時にルナは停止した。


「やあっ!! 久しぶりだねルナ♪ また一段と綺麗になったね!!」


 金髪の美青年がルナを出迎えた。



 


 
 
 


 











 
〜少憩を奏でる嬉遊曲〜
 "A notch always suddenly"



 


 
 
 


 











 ディオニス・ソニュ・ユピテル

 ヴァーミリオン皇国の皇族であり、現皇帝、ヴォルフィリア・アル・ユピテルの第三子でもある。
 地位的には第三皇子である為か、跡継ぎとなる可能性が高い、第一・二皇子に比べて公の場に出る事は少ない。
 その姿すらほとんど知られていない皇子が今、ルナの目の前にいた。


 ルナは目の前に出された紅茶を飲む。
 リコリス産の超一流の葉を使い、正確な抽出方法で淹れられた紅茶は上品な香りと味を醸し出しているがルナはそれを味わう余裕など無い。
 対して机を間に置き、ルナの正面に座っているディオニスは余裕の笑みである。元々美麗な顔つきもあってか優雅な雰囲気すら出ている。
 剣呑な雰囲気の中、二人の間でおろおろ、としているのは赤髪の侍女姿の女性。
 やや垂れ眼の彼女は視線で周りに必死に助けを求めているが、彼女と眼があうと他の侍女は目をそらす。
 自ら死地に飛び込むほど侍女達は愚かではなかった。


「で、何のようですか?」
「あはは、そんなに眉間に皺を寄せていると折角の綺麗な顔が台無しだよ?」
 言い終わった直後に、ディオニスの顔面をある物が強襲する。
 それを首を傾げるだけで回避したディオニスの耳が拾ったのはカッ、という快音。
 それはルナが投擲したフォークが壁に刺さる音だった。

「……ルナ? これはとても個性的な感謝の気持ちとして受け取って言いのかな?」
「はは、はい、そうですね。通称ディオニス、正式名称、悪魔デヴィルの顔を見なくても良かった楽園から叩き落してくれたことに対するお礼ですよ? 別名断罪」
「ふむ、君の感謝の気持ちはよく分かったよ。ならばこの僕の胸に飛び込んで来い!!」
 両腕を広げ、胸を晒しだしてディオニスは言った。その様子にルナは僅かに微笑み、言葉を放つ。
「あなたの思考回路はとっても革命的ですのね。あなたの脳を学会に提出したらどうですか? 生物学会が震撼しますよ」
「なるほど、それだけ私の頭脳が神秘的と言う事かな? 」
「えぇ、神秘的ですよ。私達人間の理解が及ばない遥か彼方まで飛んで逝っておられますから」

 そして微笑み合う二人。
   
 その二人の間では、赤髪の侍女が胡桃色の瞳から溢れんばかりの涙を浮かべ周りに増援を要求する。
 しかし、他の侍女達は全員、その事を思考から追い出しているようだった。
 侍女達はそれなりに優秀だった。 



 それから三十分も会話(成立はしていない)をしていた二人だが、ついに泣き出した赤髪の侍女の働きによって本題へと入った。

「今回来たのは一つ頼みたい事があるんだよ」
 僅かにずれた眼鏡を指で押し上げながらディオニスは言った。
 その姿だけ見ると高官の様だな、とルナは感じた。

「で、何?」

 正直、あまり良い予感がしなかったルナだがようやく真面目な雰囲気になったので訊いておく。
 ルナの素っ気無い態度を気にした様子も無く、ディオニスは口を開く。

「ふむ、簡単な事だ、"聖冠カエルム"を取ってきたくれないか」

「はあっ!!?」

 ルナは思わず机を叩き、立ち上がる。
 その衝撃で紅茶が零れるがルナは気付いていない。

「ふむ、そんなに喜んでくれるとは嬉しいよ」
 どこをどう勘違いしたのか、ディオニスは満足気に頷いている。やはり真面目な皇子はそう長くは存在できなかったようだ。
 そのディオニスの行動を見て、ルナの額には青筋が浮き上がっているがディオニスは気付いていない。
 
「お、お嬢様、一応、皇子様ですよ!!」
「そ、そうね、どんだけイカれてても皇子だもんね」

 魔剣・ヘカテーの柄に手を伸ばしたルナを見て、既に泣き止んだ赤髪の侍女は慌てて止めに入った。
 深呼吸をして怒りを静めているルナを見てディオニスは首を傾げていた。

「ふぅ……何で、私が"聖冠カエルム"を取りに行かなきゃ行けないの!! てかアレは王族が管理してるんじゃ無いの!!?」

 落ち着いた様に見えたルナだが、怒号を上げてディオニスに迫る。
 それも無理はないだろう。そもそも聖冠カエルムは王国に代々伝わる秘宝であり、それを第三皇子がただの魔剣士に取りに行け、と依頼するなんて考えられない。現実に起こってはいるが。
 しかしディオニスは微笑みを浮かべたまま言い放つ。

聖冠カエルムが少し劣化して来ていてね。"技"のヴァルカン家の長男であるウォルに修理を任せてあるんだよ」

 その言葉にルナは納得した。
 御三家の一つである"技"のヴァルカン家は代々有能な鍛冶屋や細工師を輩出してきた一族である。その中でも随一の腕を誇るウォルだったが、家を出奔。今はこのエクリュの街で魔補具屋をやっている。
 出奔したウォルに聖冠カエルムの修理を頼んだなど国民には知られたくないのだろう。だからルナの様な一般の魔剣士が依頼されたのだ。

「つまり、それだけルナを信頼しているって事だよ♪」

 ずれた眼鏡を指で元の位置に戻しながらディオニスは笑った。
 その笑顔を見てルナは溜息。諦めが含まれた声で依頼を承諾した。